補足・第七章、評価経済論にものからもの申す?! ~【簡易版】文系オヤジ降臨~まだ唱えてるぞ!オイラの『評価経済論』
今回のけーこす先生の元記事は、以下です。
この記事で、けーこす先生は以下のようにお話しされていました。
私は、評価経済社会やこの社会で認識された価値・信用は、既存の貨幣社会とは断絶された代物ではないと思っています。
それは、М1、M2、M3以外のもっと拡張性を秘めたもので、近年になって社会的価値が観測され始めたものだと捉えています。
ひょっとしたら将来はM4などとして新たに国富評価上の一構要素に加わるかもしれないという認識です。
そこで使われていた「お金」の図に、さらに「もの」を加えて作成したのが、前回の記事で掲載した以下の図でした。
今回はこの図の左上「価値=価格ではなく~以下略~」についての話です。
皆さんは「価値が上がる一方で下がらないもの」ってご存じですか?
価格ではなくて、価値です。
価格は下がることがあります。
図では「戦中戦後や災害」「ゴッホの絵画(のように評価の方が誤りである場合)」を例として挙げています。
というわけで、むしろこれがヒントになっているわけですね。
そう「ゴッホの絵画」がその一つです。
何故、価値が上がる一方で下がらないのかと言えば、作者のゴッホは既に亡くなっているからです。
ゴッホの作品は、現存のものを除いて新たに生み出されることはありません。
既に存在するものが新たに見つかった、ということはあるかもしれませんが。
そして現存するものは状態が悪くなったり盗難で行方不明になったりなどして、これから良い状態を保っている作品の数は減っていくだろうことが予想されます。
これ以外の例だと「ストラディバリウスのバイオリン」とか。
(ちなみに作者のストラディバリにはジュゼッペ・グァルネリというライバルがいて、彼の作品「グァルネリウス」も非常に高価なものです)
というわけで、例えば「ゴミ屋敷の中に古いバイオリンがあって、捨てようとしたらそれがストラディバリウスのバイオリンだった」ということがあったら、ゴミと思いきやものすごいお宝やったやん、て話になるわけです。
もちろんこれは「それがストラディバリウスのバイオリンであるということのわかる人がいなかったら、要らないバイオリンとして捨てられる」ということでもあります。
(欧州の貴族はこの「価値が上がる一方の資産を代々受け継いで、資産を増やす(少なくとも維持)」ということをやっているわけです。
「価値は上がる一方、価格は短期的には下落することもあるが、長い目で見たら問題ない=お家を存続させたら問題ない」という話で)
ストラディバリウスのバイオリンが高価なのは、それがかけがえのない人類の遺産でもあるからです。
それが価値を知らないで捨てられるということは同時に、人類全体の損失でもあるわけです。
これは非常にもったいないことだと思いませんか?
そのような人類全体の損失の例としては、バーミヤンの大仏が挙げられます。
我々はもう、バーミヤンの大仏をもう二度と見ることはできません。
(……って、あれからもう20年も経っていましたか。
参考:『20年を経てバーミヤーン大仏の破壊を振り返る』文化遺産の世界様より)
というわけで、ここで私が言いたかったことをまとめると以下です。
「評価する能力は大事なもの」です。
故に、評価する能力を大事にすることは「自分の資産を増やせる、または失うことが避けられる」ことに繋がります。
それは個人の話に留まらず、人類全体の資産を守ることにも繋がります。
さらに言えば「他者の持つ、他のものを評価する能力もまた、大事なもの」です。
自分がわからないことは「わからない」という理由だけで(人道的に問題がない場合なのに)他者を全否定するのは、避けなければなりません。
他者を全否定し破壊し捨て去ったものが人類全体の遺産だったら、もう取り返すことはできません。
そして最後に言えば、それは「もの」だけの話ではありません。
「人」も同じなのです。
人を評価する能力に問題があれば、戦争に負けてえらい目に合うこともあるのです。
この話にご興味ある方は、以下の記事もよろしくお願い致します。
今回はここまで。
お付き合い頂きましてありがとうございました。
※元マガジン「文系オヤジ降臨~まだ唱えてるぞ!オイラの『評価経済論』」