評価経済社会の理解とハックに欠かせないコペルニクス的転回とは?
評価経済社会の理解とハックに欠かせないコペルニクス的転回とは?
【ご挨拶】
※ワタクシこと、文系オヤジ・Ali-Kecosは、Cryptド素人の田舎者です。
HiÐΞやそのステークホルダーの方々の社会正義に照らしたイノベーションに賭ける熱意に惹かれ、お邪魔しています。
HiÐΞでは、これまでの半生を通じて、今後、本格的に到来するであろう評価経済的の仕組みを解説することにより、これまでの社会の病弊、矛盾に切り込み、それを打破するための社会実装までを目指していきます。イノベーション万歳!
私は、コンドラチェフ的な時間軸、すなわち技術革新が世界のルール・チェンジャーとなった期間(ここでは約3/4世紀)ごとに国力または経済力を測るための指標が、どのように変化されてきたかを考察し、評価経済の真相に迫る試みをしています。
(1)戦乱期から生じた新たな経済指標の萌芽
では、過去の投稿で解説してきたことを次の表のようにおさらいしてみます。
・明治維新以前の国力・経済力指標→(石高)≒(一人当たりの穀物生産量)×(農民人口)
~【技術革新的視点】工業化以前の生産方式
・明治維新から戦争混乱期直前までの国力・経済力指標→(石高)+(製造業産出量)
~【技術革新的視点】近代的大量生産の始まり
・戦争混乱期~終戦までの国力指標→軍事力>経済力
~【技術革新的視点】一時的な戦時状態(×平時)
それで、今回はいよいよ終戦から今日におけるコロナウィルス混乱期(1945~2020) までに入り、いよいよ今日まで我々の価値観を支配してきたGDP(GNP)の時代についてご紹介することになります。
この解説では、先ほどの表で私が赤枠で「混乱期」と示した箇所について理解を深めていただくことが非常に大切です。なぜなら、不透明感を増したこの時期にこそ近代経済学の礎が築かれた時期だからです。
と同時に、この時期には、人類におけるある種の知恵というか、コペルニクス的転回が潜んでいます。私は現代が評価経済への移行期である“と捉えていますが、それはこコペルニクス的転回を認識して焼き直しすることで浮かび上がってくる実像だと捉えているからです。
どうか注意深く聴いていただきたいと思います。
(2)従来モデルの欠陥
実は、恐らくケインズ以降の近代経済学を勉強したことがある方であれば、これまでの私の解説で
「変だ!」
と直感されたことがあったのではないかと思います。それは、私のこれまでの国力・経済力指標に関する解説に敢えて簡略化してきた致命的な、「欠陥」 があります。
それは、近代経済学における一丁目一番地の要素、”価格”や”物価” に他なりません。所謂、文系学問の中で、経済学は最も説得力や証明性が認められるものの一つですが、それは、価格や物価のような定量的な要素を含んでいるからです。
でも、私はこれまで敢えてそれを除外して解説してきました。なぜか?
それは、この戦乱期以前は”価格”や”物価”の大切さは知られてはいましたが、現在ほど国力・経済力指標のために意識するや活用する必要 がなく説明が可能だということに気づいていただきたかったからです。
(3)人類の永年の課題”飢餓”
もちろん歴史的には江戸時代以降、幾度か狂乱する物価などに悩まされることはありました。そして当時の人々もモノが不足すれば価格は上がる”ということくらいは”知っていました。
でも、”知っていること”と”意識すること”は全く別のものにあることを、私は次回以降、解説することになります。
では、なぜ私は価格を無視し、これまでのモデルを説明できたのか?それは、各国の人々は産業革命前後において人類史において、一大ターニングポイントを経験したからです。
それは人類史の永年の課題であった”飢餓からの脱却” にあります。
人間の胃袋の容積というのは決まっています。だから、飢餓が満たされるまでは、商品市場の中で食糧の割合は相対的に高く、国力や経済力は、そうした食糧の供給者の産出量に依存しているのです。換言すれば、私が、これまで線的(一次元的)な世界観で国力や経済力を説明できた理由も、こうした経済の根本構造にあります。このような社会では、人類は食糧の確保に専念することになり、現代ほど、すなわち人間の胃袋の容積以上には、金融市場は発達し得ないのです。
(4)価格弾力性
もともと1760年代から1830年代にかけてイギリスで最初に起こった産業革命は、わが国では明治維新以降に本格化しました。この文明開化と開国で、我が国も世界貿易の枠組みに組み込まれました。近代化による食糧増産は、余剰労働力が生み出し、軽工業を発達させて、食糧以外の“商品の多様化”が一気に進みました。すると従来のような“飢餓の時代”の枠組みでは考えられなかった“商品と価格の新たな関係性”が始まりました。経済学ではこの現象、価格(の)弾力性という用語で説明するとよく理解できます。
価格の弾力性というのは、わかりやすく言えば、
アナタにおける①商品の値段と②モノを欲しいという気持ちがどう変わっていくか?
との関係性を表したものです。
私たちは、日頃、どっぷりと貨幣経済に染まっているので、あらゆるモノとサービスは金額で置き換えられると考えがちですが、その”AとBが等価である”などという”洗脳”は単なるまやかしに過ぎないということに気づきはじめる良いきっかけにもなるので、少し解説させていただきたいと思います。
こうした価値の本質をコペルニクス的転回で理解していただかないと、評価経済の本質が理解しにくいからです。
では、コメ一俵と高級ティーカップが日頃、同じ値段であったと場合について紹介させていただきます。
① コメ一俵
究極的には、コメは人間の生命維持に必要なモノです。そのため、人類は、コメの数量が少なければ、どんな値段を投じてでも、一定量を欲しがるので、価格と需要量の関係は次のグラフのようになります。一方で面白いのは、あくまでも人間の胃袋の容積以上はあまり必要がないので、特に長期保存の技術が発達していなかった昔は、需要量に限りがありました。
だから、明治維新以前のように現代よりも飢餓に近い時代には、価格や貨幣の存在は、国力や経済力を測るモノサシとしてさほど重要ではなかったのです。
② 高級ティーカップ
一方、明治維新以降のように、飢餓をある程度克服し、高級ティーカップのようなモノが商品として出回る世の中になるとどうなるでしょうか。高級ティーカップというのは、人類の生命維持のためには、必要なものではありません。
しかし、**コメのように胃袋の容積の制限を受けません。**基本的に長期保存していても劣化の恐れはありません。その魅力に惹かれれば、人間の欲望とリンクし、一人が無限に欲することも可能であり、需要量に限りはないため、コメの場合とは反対に横長のグラフになります。
つまり、近代以降、食糧などよりも、相対的にその他の製造業の比率が高まると、価格に敏感な社会、カネがモノをいう社会、つまり供給者(農民などの生産者)よりも、需要者(消費者)が交渉力をもつ時代へと移り変わっていくことを改めて認識していただけると思います。
(5)線的(一次元的)指標の限界と新たな座標軸の必要性
私が、国力・経済力の指標として、用いてきた線的(一次元的)なモノサシ、つまり供給者の産出だけを意識すれば良かった時代の終焉です。なぜならこれ以降の時代は、やみくもに生産量を増やしても、供給過多は単に価格の低下を招くので、国富の総量は目減りしてしまうだけだからです。
そこで、新たに必要な次元こそが、価格を介した需要者(総需要)の軸であり、国力・経済力の正体は、もはや線的な存在ではなく、需要と供給による面的(二次元的)な世界であると人々が気づくきっかけが生まれたことになります。
そして先ほどの例で考えると、このような貨幣経済の発達により、本来、生命維持にとって不可欠であるコメよりも、無尽蔵に取得できる高級ティーカップの総需要の方(面積部分)が大きく国富の創出という点では逆転現象がみられることさえあり得ることとなります。
そして、それことが今日に至るまで用いられてきたGDP(GNP)という概念であり、国力・経済力指標として、貨幣という”数字の積み上げ競争” が始まることとなります。
ちなみにもっと学問的に掘り下げると、この時期には、マーシャルのk(=M/PY)に代表されるマーシャル(1842~1924)や、フィッシャーの交換方程式(MV=PT)に代表されるフィッシャー(1867~1947)
(M:貨幣量、V:貨幣の取引流通速度、P:物価、T:1期間における財・サービスの取引量)
がいます。彼らが価格を介した需要と供給の世界観を描いています。
このように”モノが不足すれば価格は上がる”と誰もが”知っている”ことを”意識”して、別な次元構築にまで昇華していくことは、一見単純なことですが、実は後述する評価経済を理解する上で肝要なコペルニクス的転回であると私は捉えています。
次回は、”知っている”ことを”意識”することが、経済社会をハックするために如何に大切であるかについて、触れさせていただきたいと思います。
お付き合いいただきありがとうございました。
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※オイラ、いただいた投げ銭の1/3程度を勝手に「再投げ銭」することとしています。この企画ではその「再投げ銭」した記事の中からの一つをピックアップしてご紹介させていただいてます。
・・というワケで今回の注目記事はコチラ!
無職になってよかったこと・悪かったこと【有休3ヶ月目】を投稿されたANE@選択的無職です。
オイラ、たまにHiÐΞでこ~ゆ~記事に出会うと、正直、ホッとします。
いつも次々、斬新なブロックチェーン関連記事を拝読する度に、「ぅお~っ!」って
興奮するんですが、まだまだ理解できない部分やら、限られた時間では試し切れないことが蓄積してしまって、正直、アドレナリンが枯渇することがあるんですわ~。
そんな中、ANEさんの独自の視点の記事に出会えて、ちょっと心の居場所を見つけた感じ。
オイラはANEさんのように会社と正面切って戦うほど強いお方(?)ではありませんが、自分の正義、信念を貫く姿勢に共感できました。
きっと、HiÐΞの次なるブレークスルーや暗号通貨のマスアダプションを見据えた時に、アーリーマジョリティとして、ANEさんのような方々に居心地の良い場所となることなんだろうと僭越ながら直感いたしやした。
ANEさん、これからも社畜時代の裏話とタイの移住生活の2本立てで、オモロイ記事、提供してくだ~い!