藝術と芸術とアートの違いを知ると、これからの生き方も見えてくる
※ここで書いたことをもうちょっときれいに書くと、このようになります
藝術と芸術とアートの違い???
何となく「芸術をより親しみやすいポップな感じで言ったのがアート」で、「藝術」は「芸術」の旧字体なだけでは???
……と、私も思っていましたが。
実はそれだけではありませんでした。
それぞれを一言で言えば、以下です。
・藝術=明治時代の西周による「リベラルアーツ」の訳語(本来の意味ではない) ・芸術=戦後に「藝」を簡略化したものだが、意味も変容(本来の芸術の意味) ・アート=英単語「art」をカタカナ表記でそのまま訳語としたもの
元の意味で詳細をまとめると以下です。
・藝術=芸術の中では音楽のみ ・芸術=美術、音楽、文芸、デザイン、総合芸術、その他 ・アート=芸術の中でも美術のみ
藝術=芸術の中で「は」音楽のみ、という書き方(で「も」となっていないの)には意味があります。
というのは、さらに詳細に言えば以下のようになるからです。
・藝術=芸術の中では音楽のみ(他に芸術に属さないものが含まれる)
西周が訳した「art」は「リベラルアーツ(のアーツが「arts(アートの複数形)」だった)」の意味で使われていたものでしたが、この「リベラルアーツ」の語源はラテン語の「アルテス・リベラレス」であり、さらに遡ると元は古代ギリシアで生まれた「エンキュクリオス・パイデイア」に相当します。
(ただし「アルテス」はギリシア語の「テクネー」にも相当していますが、この「テクネー」は修辞学など一部を除き概ね非自由民のものされていました……この辺りの話はややこしいので、後ほど図で表します)
その「エンキュクリオス・パイデイア」は「自由民が労働以外の束縛からさらに解放されてより自由になり、さらなる高みを目指すための学問」とされていました。
その後「リベラルアーツ」は、古代ギリシャから古代ローマに継承され「アルテス・リベラレス」となった後「セプテム・アルテス・リベラレス(自由七科=文法・論理・修辞・算術・幾何・天文・音楽)」として定義されます。
しかし今の芸術とは、少々違うと思いますよね?
何故なら西周が訳した「藝術」には、現在の我々の言う「芸術」の「音楽」しか含まれていないからです。
戦後に「藝」を簡略化し「芸術」という単語になった時には既に、現在の「芸術」の意味に変容していたものと思われています。
では、ここで「art」の語源について。
「art(アート)」の語源はラテン語「ars(アルス)」で「技術」「自然の配置」「資格」「才能」など、幅広い意味があります。
古代ローマにおいての「技術」という意味でのラテン語「ars(アルス、複数形でアルテス)」は、中世初期に「機械的技術」(アルテス・メカニケー、artes mechanicae)と、「自由の諸技術」(アルテス・リベラレス、artes liberales)とに区別されました。
(「自由の諸技術(アルテス・リベラレス)」が後に「自由七科(セプテム・アルテス・リベラレス)」と定義されたのは先ほど触れました)
「機械的技術(アルテス・メカニケー)」は、後に英語で「メカニカルアーツ」となり、先の「リベラルアーツ(=藝術)」との対比で「技術」と和訳されました。
この二つの「ars(アルス)」は共に「人がつくったもの」ですが、特に産業革命以降は「メカニカルアーツ」を「機械による実務的なものを造る」場合を指す方に使って「テクノロジー」となり、それ以外の実務的ではない(芸術的な)ものを人が作る場合を「アート」とするようになりました。
(それ以前の「メカニカルアーツ」の一例として、ローマ時代のガレー船を漕ぐ奴隷が挙げられます。
ガレー船を漕ぐのは技術が必要でそれがないと船を動かすことができませんが、その技術を持つ奴隷はそれを用いて仕事を得ることができます)
「テクネー」は「テクニック」の語源だったりもします
で、この「人がつくったのか、神がおつくりになったのか(=人がつくったものではないもの、自然)」によって、欧米の学問の分類は「アート」と「ネイチャー」に分かれています。
それに対して、何故、日本の学問の分類は「文系」と「理系」なのか?
ご興味がある方は、この下に余談として追記しましたのでよろしければどうぞ。
それはさておき、そろそろタイトルの「これからの生き方」について。
当初は自由民向けの学問「リベラルアーツ」に比べて下に見られていた「メカニカルアーツ」でしたが、宗教改革で労働と労働による蓄財が肯定され、見直されることになりました。
それから時が流れて現在、世界的に生活に必要なものはほぼ満たされつつあります。
かつての非自由民や今の労働者が担う労働というものは、いずれAIやロボットなどによって行われるようになることでしょう。
(もちろん、そちら側の仕事に携わることのできる人もいるでしょうが、非常に優秀な人に限られます)
すると我々人間は、何を学び、何を成せば良いのでしょうか?
我が国以外の国々は概ねそのことを知っています。
「リベラルアーツ」ですよね?
それを知らないのは何故、概ね我が国だけと言えるのか?
答えは、欧米または欧米の植民地であった国が大半だからです。
日本は偉大なるご先祖の皆様のおかげで、欧米の植民地となることを免れました。
が、それが思わぬ形で妨げとなる日が来るとは、時の流れと人類の歩みの速さに畏怖の念を抱かざるを得ません。
この記事を書く際にはウィキペディアとARTFANS様とExecutive Foresight Online:日立様のお世話になりました。
ここから余談ですが、私は以前『ゲームやアニメ、漫画でこれからの生き方を学ぶ』という電子書籍を英訳して出したことがありました(ちなみにそれは『Games, Anime, and Manga Can Teach Us How to Live in the Future』です)。
そこで非常に苦労したのが、日本語にはない「リベラルアーツ」という単語の説明でした。
日本では「リベラルアーツ」という単語は訳語がなく、事実上日本語にはありませんので、カタカナ表記でそのまま使われています。
で、何でこの「リベラルアーツ」という単語がないのかといいますと、それは「教育システムが違うから、ほぼ存在しない」という理由です。
(実際は国際基督教大学や桜美林大学など、一部の大学にリベラルアーツ教育が導入されてはいますけども、非常に少ないです)
何故なら、明治維新の時に西欧列強から入ってきた教育システムはそのまま持ち込まれたものではなく、日本人にできるだけ速く履修しやすいようにカスタマイズされたものだったからです。
それは何故かと言いますと「植民地化を避けるために、理系の人材育成を優先したかった(=文系と理系に分けて、理系の人材育成を優先する)」という理由が最大のものではないかと、私は考えています。
植民地化を避けるためには「富国強兵」をしなければなりませんが、この中でも優先されるのは前半の「富国」よりも後半の「強兵」です。
「強兵」では強い兵士と強い兵器が必要であり、強い兵器を造るためには優秀な理系の学者さんが必要ですから。
つまり富国よりも強兵を優先したために理系の人材は優先順位が高かったわけですが、だからと言って、文系の人材が劣っているとか要らないとか、そういうことにはなりません。
これからも国を豊かにし続けるためには文系の学問は必要不可欠ですし、実際に世界的に豊かな会社であるGAFAは哲学者を雇っているのですから。