なぜDAO的な村社会は、「お金」によってDAO離脱したのか?
「DAOは日本の昔からある村社会と同じダオ!」という記事をnoteに書いたのですが、DAOのような組織であった村が脱DAO化してしまったのか? そんなことを考えている仮説があるので、あえてのハイドでまとめてみる。(え? 村は、いまだにDAOってる? そんなことはないと思われ・・・^^;)
※3部作で完成しましたよん!
1部「DAOは日本の昔からある村社会と同じダオ!」
2部は、この記事
3部「DAOは、村社会の労力と「お金」の価値交換をテクノロジーで実装することで、都市から村への再帰ともいえるよね!」
あ、先に書いておくと、noteは、言うてもWeb2.0の世界なので、ここはやっぱ、より確信を突く内容にしたいって思って、Wen3.0なハイドでしょう!って思った次第。最近、Web2.0とWeb3.0とを行き来して、自分の中でもしっくりくる解釈をしたいなぁって思ってます。あまりにもWeb2.0とWeb3.0では言葉が違いすぎて、概念が違いすぎるので、橋渡しが大変っす! でも、そこをできるのは、分かりやすく翻訳できるスキルを持つからこそだと思っているし、両方の視点を持つって、めっちゃ楽しく、大事だと思ってるのですよねー!w
前置きが長くなったのですが、昔の日本の村社会は労力の貸し借りをしていて、記憶による帳簿に記録してきました。なので、何か人手が必要なことになると、その帳簿に基づいて労力を返したり、新たに借りたりという行為が行われていたのです。労力の物々交換ですね(って、労力だから、モノじゃないだろ!ってツッコミしないでくださいw というか、ここが、NFTの文脈に似ていて、コピーできるデジタルなのに所有権って何だよ!というのと同じに聞こえるw)。
そういう物々交換をしていた平和な(?)村に、「お金」という便利な概念が入り込んできました。
「記録するぐらいなら、金をくれ!」(ドラマ「家なき子」風に)
ということになってきたのです。え? それ以前に「家なき子」を知らないから、頭に入らないってか? うーん・・ 昭和な人達には、これで十分通じるんだけどなぁwww
いかん、いかん! また、脱線してるではないか!w
ともかく、これまでは、労力と労力の交換だったのが、お金が入ってきたことで、価値を数値化するのに便利で、かつ、価値を保存し、労力にもモノにも交換できるので、一気に広がっていきました。
確かに「お金」は便利なのですが、村社会の外でも通用するのが曲者。それまでは、労力と労力の交換って、村の中でしか通用しない。
いくら茅葺屋根の葺き替えを手伝っても、草刈りを率先してやっても、田んぼのあぜ道の整備を全部やっても、隣村では知ったことではないです。
ところが、労力を「お金」に交換すると、隣村どころか生き馬の目を抜くような東京の大都会でも利用できます。東京というコミュニティに所属するとかしないとかは関係なく、すべてが「お金」という便利な価値交換装置によって成り立つようになるのです。
そして、村にいた人々は、より効率よく労力を「お金」に交換できる場所を求めて都会に集まってきます。村にいても屋根の葺き替えによる労力の提供って、毎月あるはずもなく年に1回あるかどうか。都心部に行けば、茅葺の家はなくても常にどこかで家を建て修理し道路工事が行われています。それだけ労力を「お金」に交換する機会が多いのです。
一方、村の中でも、労力を借りるよりも「お金」と村の外の業者に依頼する方が準備しなくてもいいし、みんなの都合をきいて日程調整なども必要ありません。業者の担当者とだけ交渉すれば事足りるからです。葺き替え作業する当日だって、何もせずに家の中でお茶を飲んでのんびりしてればいい。そうやって、村人たちの労力の交換は、だんだん少なくなっていったのです。いや、村の中でさえ労力と「お金」との交換が起きるようになってしまいました(Yahoo!知恵袋とか見てると分かりますが、草刈りに出れない場合罰金はどうなのか?など書かれてますよ)。これほど村社会の構造を「お金」は大きく変えてしまいました。
こうやって出来上がってきたのが、村からの労働力(人)の流出であり、都会に人が集まってくることになったのですよね。
さて、ここまで長々とBC(ビフォー・コロナ)時代の変化について考察(という名の戯言?)を書きましたが、問題はここから。AC(アフター・コロナ)になって、DAOのように村社会の労力の交換へ戻ろうとしています。
この辺がWeb2.0からWeb3.0への動きと重なったのです。
では、Web3.0は、どうなっていくのか? その仮説(という名の戯言。って、2回も言うな!w)については、また、Web2.0とWeb3.0の中間的なWeb2.5の環境で書きました。