帰属
最近よく思い出す感情があるのでここに記しておく。
人は常々、自分の所属する組織、出身地、出身校、そして国家、そういった帰属先のパワーを自分のものと勘違いする。 これは一時的にアメリカにいた自分だってそうだったし、アメリカで育ったアメリカ人も当然そうだ。
彼らは世界を見るとき、世界の警察たる、世界の経済王者たる、世界の文化発信源たるアメリカを前提として、その視点で世界を見る。 私はそこに身を置いたことで、一時的にそういった世界の見方を(ごく一部ではあるが)学んだ。
その経験は、甘美で、そして醜悪だった。
中東の安全保障を学んでいた時のこと。 具体的な文脈は割愛するので想像で読んでほしいが、中東の歴史を紐解いていた時、たしかアメリカの介入とその失敗(実際ほとんど失敗だ)について解説していた時だった。インド出身のクラスメイトが声を荒げたことがあった。
「あなたたちの言う正義に従わないのは敗者なのか、正義に従った結果、人が飢えてもレイプされても殺されても、あなた達は助けないのに!」
教授は肩をすくめ「一理あるわね」といった言葉の後に、次の話題に移った。
教授の名誉のためにいうと、教授は特定の国家を非難したわけではない。公平な視点で語っていたと思う。多国籍の生徒たちに教えるためのノウハウ、みたいなものがあったとしたら、彼女は律儀に守っていただろうと思う。
それでも、どことなく滲み出る支配者の視点にクラスメイトは気が付いてしまったのだろう。
「よく言ったね」
授業が終わった後、彼女に話しかけた。
彼女は眼を閉じ、息を吐いた。
異国の地で、彼女は深く傷ついていた。
支配者の視点は、それ自体が人を傷つけるものなのだろう。
核兵器すらもたない弱小国家を、世界最強の軍隊を持つアメリカの視点で見る。この行為は何とも言えない優越感を与える。
と同時に、そこにフラットな視点は訪れないであろうことも示唆する。
アメリカが間違えるとしたらーーいや大変よく間違えていると思うけどーーこの視点にあるのではないかと思う。支配者の視点を、支配者ならざる者も持ってしまう。その醜悪さは、自らが思うよりも世界に漏れ出しているんだろう。
大好きなクラスメイト
大好きな街並み
大好きなコーヒーショップにパンケーキ屋に寿司屋、、、
アメリカ生活を存分に楽しみながらも、結局のところ相容れない何かを常に感じ、時にそれは嫌悪感にもつながった。
そうだな。
弱い者には弱くあろうとする、うまくできない者にはうまくしない事情がある。それは長い長い歴史であり、政治であり、生き残り策であることも多い。
ここでは、その深みは言い訳と切り捨てられる。
曖昧なものは嫌われる。
いっそアメリカの視点に染まってしまったほうが楽なんだろうな。レポートを書きながら、出来もしないことを考えた。
同じようなことを、帰国してからも感じた。人は帰属先の力を前提とし、自分の力と勘違いし、世界を見てしまう。
そして時に発信してしまう。
港区の低層ビンテージマンションに住むことは、松濤の一軒家に住むことは、あなたの価値を高めはしない。
しかし、人は勘違いをするもの。
この大いなる勘違いが、エスタブリッシュメント足りうる自分への意識を高め、文化への興味関心を焚き付け、世界を豊かにしているのかもしれない。
と同時に、今も誰かを殺しているんだろう。
そんな気持ちは、帰国し2年もたったのに消えはしなかった。
結局、自分にぴったりくる国なんて、場所なんて、どこにもない。
転職してもぴったりくる会社なんて結局ない、そう結論付けたいつかを思い出す気づきだった。
だから、この先もせめて自分の手の届く範囲から、醜悪なものはそっと取り除きたいなと思う。
あともう一つ付け加えるなら、
曖昧でありたいなと思う、
たとえそれがかっこ悪くても。
その位しか思いつかないのだ。
Mari S